太平洋戦争について

陶山神社と古賀峯一連合艦隊司令長官

陶山神社と古賀峯一連合艦隊司令長官
有田町にある陶山神社。ここに有田町出身の古賀峯一連合艦隊司令長官の碑があります。開戦当初の山本五十六連合艦隊司令長官は、あまりにも有名ですが、山本五十六戦死後、次の連合艦隊司令長官が古賀峯一です。しかし、古賀峯一もおよそ1年後に海軍乙事件で殉職してしまいます。

海軍乙事件とは、太平洋戦争中の昭和19年3月31日、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と呼んでいます。

1944年2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していましたが、3月に連合軍の大空襲を受けます。そのため、古賀ら司令部の要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ二式大艇で移動を図りましたが、途中で低気圧に遭遇し、古賀が乗っていた一番機は行方不明となります。この事故で司令部要員7名を含む全搭乗員とともに古賀も殉職とされ、元帥府に列せられ元帥の称号が与えられます。古賀の殉職はすぐに国民には知らされず、同年の5月5日に発表されます。 一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員3名(山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は泳いで上陸したがゲリラの捕虜となり、新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍機を奪われます。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留等は拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった。そのため日本軍の作戦はアメリカ軍に筒抜けになっ
てしまいます。

こんな偉大な方が有田町の出身なのに、有田町にあるのはこの碑だけとは…。ちょっと寂しい気がしますね。
ちなみに古賀峯一は戦死ではなく、殉職のため靖国には祀られてません。

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大刀洗平和記念館 ④

これだけ戦闘機を熱く紹介していると戦争を賛美していると捉える人もいると思われますが、私は、もちろん戦争反対です。
ですが、それは今だから言えることであり、当時は軍国主義・帝国主義は米英はもちろん世界の先進国では当たり前であり、生き延びるために、そして国の誇りをかけて戦わなければならない弱肉強食の時代だったのです。

戦争に目をつぶるのではなく、彼らが尊い命を投げ出し、いかに戦い、いかに死んだのか、後生に伝えていかなければなりません。国の犠牲になって可哀想…犬死にだ…そんな考えだけでは彼らの死は本当に無駄死にとなってしまいます。彼らの尊い犠牲があり、次の世代として我々がいるのです。

悲惨な戦争は、決して繰り返してはいけません。だからといって、過去の戦争を自虐的に反省し、卑屈になる必要は全くありません。ましてや、愚か者扱いするのは、平和ボケの象徴と言えるのではないでしょうか…。

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大刀洗平和記念館 ③

大刀洗平和記念館 ③
写真は97式戦闘機。
陸軍最初の低翼単葉戦闘機として、昭和15年前後の主力戦闘機として活躍しました。平成8年、福岡市東区雁ノ巣鼻沖の博多湾海底より引き上げられたのを復元。
現存する世界で唯一の97式戦闘機です。

旋回能力に優れており、その優秀な運動性をノモンハン事件で発揮します。太平洋戦争初期まで陸軍の主力戦闘機を担います。

日本軍とソ連軍がモンゴルで2度に渡って戦ったノモンハン事件では、ソ連軍の複葉戦闘機I-153や単葉戦闘機I-16と空中戦を行い、運動性の良さで敵を圧倒し大戦果を上げ、日本軍の戦線の崩壊とソ連の進軍を防ぎます。複葉戦闘機すら蹴散らす旋回性と、「空の狙撃兵」と謳われたほどの射撃安定性の両立が生んだ成果です。
第一次と第二次を併せた撃墜総数は日本側の発表では1,252機、日本機の損害はノモンハンでは大中破も合わせて157機でした。日本側の損耗率は60パーセントで、これらノモンハン航空戦の戦訓として陸軍は、単機空戦から編隊空戦への移行・防弾装備の必要・飛行部隊と地上支援部隊の空地分離化と並び、航空機と操縦者の有効性と消耗性を知り、数を揃える必要性を痛感しました。

この結果から、陸軍パイロットは旋回性が良く格闘戦に強い戦闘機による制空権確保に自信を持ち、太平洋戦争初期頃に至るまで「軽戦万能主義」などとも言われる考え方が支配的になります。そのため、当時開発中だった後継機・一式戦闘機「隼」にも97戦を上回る旋回性能が求められ、空戦フラップまで装備して旋回性能を追求したものの、結局97戦にはおよばず、隼は不採用になります。
その後、戦略の転換から南方作戦の長距離侵攻に使える戦闘機が必要になったため、隼は一転して制式採用となります。

太平洋戦争開戦直前の昭和16年12月7日、マレー半島への上陸部隊を乗せた輸送船団の上空護衛を行い、哨戒中のカタリナ飛行艇1機を撃墜したのは第12飛行団所属の97戦であり、太平洋戦争の初戦果を挙げるとともに、上陸作戦成功の大きな鍵となります。

太平洋戦争では、昭和17年春辺りまで実戦に参加し、英軍のハリケーンMk.2やバッファローに対しては、運動性の良さや日本軍優勢の戦局から善戦はするものの速度や武装面では劣り、旧式化した97戦は後継機の隼に第一線の座を譲ります。

その後は優れた操縦性・安定性から訓練用の九七式練習戦闘機および二式高等練習機として、また短い未整地路で運用できるため連絡用途、内地の防空戦隊といった後方の二線級部隊などで用いられます。

末期には他の機体と同様に特攻機に転用され、急造の少年飛行兵が操縦の容易な97戦で出撃させられたが、ガソリン不足から訓練もままならぬ状態で、古参機ゆえに故障も多く出撃不能や帰投が続出しました。

海軍の零戦のように、末期には悲しい結末になります。

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大刀洗平和記念館 ②

大刀洗平和記念館 ②
大刀洗平和記念館 ②
中に入るといきなり目に入るのが、零式艦上戦闘機32型。写真では分かりにくいですが、両翼の先が角ばってるのが特徴。
私は21型が一番好きなんですが…零戦の強みの1つは、何と言ってもその航続力です。長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらします。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、彼我の距離が離れ過ぎていた為、当時の常識からすると空母無しでは実施不可能と言われましたが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂しました。
この航続力において21型は傑出していると言われますが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの2倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことです。これと同じ条件で、航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい32型や栄より燃費の悪い金星を搭載した54型を除く零戦後期型(22型や52型)と21型の間に大きな差はなく、32型でも21型の85%程度となります。

32型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されましたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、21型より航続距離の短い32型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていました。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に21型の補充を要求しています。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の32型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっています。敵味方の相対的戦力で考えると、より高性能であるはずの32型の特性はガダルカナルと言う戦線には合っておらず、むしろ21型の方が適合していたと言えます。 とは言え、速度・高高度性能・高速時の運動性など、21型の欠点を補う改修が施された32型は後の海軍戦闘機の方向性を決定したと言えます。

零戦の性能向上が果たせなかった原因の一つとしては、日本海軍の戦闘機開発政策の迷走が挙げられます。零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(後の雷電)の開発を指示しています。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機の局地戦闘機化(後の紫電・紫電改)を保険的な意味合いもあって許可しています。しかし、雷電が数々のトラブルで早期の戦力化が不可能、紫電の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまいました。 また開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦32型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも32型を大量に生産する計画が立てられていま
した。しかし、所謂「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦32型のライセンス生産は中止され、昭和19年前半まで零戦21型の生産を続けています。
次に挙げられる原因としては、発動機換装による馬力向上の失敗です。雷電・紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った53型と呼ばれる性能向上型の開発が開始されました。53型には水メタノール噴射装置の追加によって出力向上を図った栄三一型の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580km/h台まで向上させることが可能と試算されていました。栄三一型の開発は比較的順調に進み、53型試作一号機を用いて実用審査が行われていました。しかし、昭和19年秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦52型系列約300機の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われることになったため、栄三一型の審査は一時中断されました。そしてこの問題が解決するかどうかの内に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産に移行できない栄三一型の代わりに栄二一型が零戦に装備されることになり、審査と平行して生産されていた栄三一型用
の水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになりました。この結果、大量生産された零戦52丙型は栄二一型装備のまま武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000kg近くまで増加、その代償として速度・上昇力が大きく低下しています。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、審査終了が終戦間際であったため、栄三一型装備の零戦が多数配備されるまでには至りませんでした。
零戦に栄より大馬力を期待できる金星を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっています。まず、零戦21型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がりましたが、最終的には栄二一型が採用されています。次に昭和18年秋に中島飛行機での誉増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されましたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電21型の生産開始が近いと考えられていたことから中止になっています。昭和20年になり、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄の生産を中止することになったため、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画されました。零戦54型と呼ばれる発動機換装型は、艦上爆撃機彗星33型のプロペラとプロペラスピナーを流用した極めて間に合わせ的な機体ですが、発動機換装により正規全備で3,100kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3km/hの速度と甲52型
並みの上昇力を発揮させることに成功しました。もっとも、航続距離は大幅に低下し、局地戦闘機的な性格が強い機体となっていましたが、戦線の後退もあってさほど問題にはならなかったようであります。性能向上型としては成功したように思える54型ですが、試作一号機が昭和20年4月に完成する数ヶ月前に、金星を生産する三菱の発動機工場がB-29の爆撃によって壊滅しており、結局、試作機2機が完成したに過ぎず、結果として零戦は最後まで栄を搭載せざるを得ませんでした。

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大刀洗平和記念館 ①

今月3日にオープンしたばかりの福岡県筑前町・大刀洗平和記念館に行ってきました。

かつてこの地には「東洋一」を謳われた広大な飛行場がありました。日本陸軍が誇る西日本最大の航空拠点でした。大正8年に誕生し、その名も故事に因んで「大刀洗」と名付けられました。
そこでは多くの若者たちが「大空への夢」を目指して青春の熱き血をたぎらせながら汗を流し、周辺地域もこの飛行場とともに大きく育ち、発展・繁栄していきました。

しかし昭和20年3月27日と31日、B29の大規模な爆撃により数多くの尊い命と共に巨大な航空基地もその姿を消してしまいました。
今では、その存在さえも忘れ去られつつあります。同じ陸軍の航空基地でも、知覧のほうはあまりに有名ですが、今回はまだ大刀洗に行かれてない方のために、ちょっとしたレポートします。

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終戦のとき

今日は終戦記念日。
大東亜戦争について考えないといけない日でしょう。ブログを観ていただいてる方には、たまに戦争ネタ書くので軍国主義者と思われてるかもしれませんが、基本的には私も戦争は嫌いなんですよ。

あの時代アジアは日本とタイ以外は全て欧米の植民地だった。そして、アジアの国々では日本の敗戦後に再び戻って来た欧米に対し次々に独立戦争を起こして欧米を追っ払ってしまう。大東亜戦争の前後では世界地図はすっかり変わってしまのだ。
だから、私は「何がなんでも戦争は悪だ」という論理が嫌いだ。戦争の中にも功績があるのではないでしょうか。
今の時代…生きることにすら生き甲斐を感じることができない人が多いのに、国家のため・家族を守るために、死ぬことに生き甲斐を感じて散って逝った軍人さん達の御冥福を御祈り致します。

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原爆の日

今日は広島64回目の原爆の日。この1年でも新たに5635人もの犠牲者の名簿が追加されたみたいです。
広島の小・中学校では毎年この日は登校日で平和学習をしたものです。

平和記念公園の中央にある原爆慰霊碑の碑文には
「安らかに眠って下さい
過ちは繰り返しませぬから」
と記されてあります。

式典を見ていつも思うのですが…。
ここに眠ってる大多数の一般市民の人達はどんな過ちを犯したの??
過ちを犯したのは原爆投下したアメリカでは?
アメリカ側が建てた碑文なら分かりますが、日本が建てた碑文だから、文章違うような気がするんだよなぁ…。

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竣工日カレンダー③

竣工日カレンダー③
今日は呉海軍工廠で建造された竣工日カレンダーによると巡洋艦最上の日です。
最上は、日本海軍の最上型重巡洋艦1番艦。
最上は竣工直後に発生した第四艦隊事件により、大改修が行われることとなる。1937年12月に第7戦隊に編入、1939年には主砲換装工事に着手。事実上の重巡洋艦となる(対外的には軽巡洋艦のままであった)。 太平洋戦争開戦時は第2艦隊第7戦隊に属し、マレー、クチン、パレンバンなどの上陸作戦を支援。 バタビヤ攻略作戦中に生起した1942年3月1日のバタビア沖海戦では僚艦「三隈」とともに米重巡「ヒューストン」と豪軽巡「パース」を撃沈する。この際に目標を外れた魚雷が陸軍輸送艦の「佐倉丸」に命中し同船を沈めたとされる。その後6月5日のミッドウェー海戦時、「三隈」の左舷に衝突、さらに米機動部隊による攻撃のため、艦首を失いトラック島で応急修理を行う。
帰国後12月から佐世保工廠で後部砲塔を撤去し水上偵察機繋止用航空甲板を設置する改修工事に入る。翌1943年5月に工事は完了し航空巡洋艦として水上機11機を搭載可能となる(発艦は従来から設置されている射出機で行われた)。そのため艦体後部は平坦で、近代の駆逐艦、巡洋艦のヘリ甲板を彷彿させる外観になった。ただし実際に搭載した機数は1944年中頃までは零式水偵4機、零式水観3機の計7機、それ以降は計5機(機種不明)で定数の11機を搭載したことはなかったようである。 1943年11月のラバウル空襲では敵機二機を撃墜するものの、被弾損傷し18名が戦死、呉工廠にて修復工事を行う。その後1944年10月25日のスリガオ海峡海戦にて米艦隊と交戦、操舵不能となりながら退避中重巡「那智」と衝突。戦場離脱後の空襲により航行不能となり、バナオン島ビニト岬南東約38海里の地点で、駆逐艦「曙」により雷撃処分となる。

旧日本海軍の誇る巡洋艦と言えますね。

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竣工日カレンダー②

竣工日カレンダー②
昨日は呉海軍工厰で建造された竣工日カレンダーによると水上機母艦・千歳の日でした。

千歳型航空母艦は当初、ロンドン海軍軍縮条約により空母保有数が制限されていたため後々空母に改装することを念頭におき、水上機母艦兼高速給油艦として設計・建造された。 当初から空母に改装することを前提にしていた本型艦は、艦中央部に強度試験用に高い天蓋が設けられなど特異な艦型となるにいたった。速力も速く機動部隊に加わっての第一線機を運用するに足りる最低限の能力を有していた。当初は条約規制で最高速力が20ノット程度に想定されて設計されたにも関わらず、建造途中で条約失効後に完成することを見越し、設計速力を29ノット以上に引き上げた。このため設計上の機関出力では後々の空母改装における最高速度の維持が困難となり、当初の艦本式ディーゼルと高速用タービンエンジンのみの仕様に加えて巡行用のタービンエンジンを追加するという、非常に複雑な機関配置となるにいたった。改装に至る背景で外観が龍鳳型・祥鳳型の両空母に酷似しているのが本型艦の特徴の一つだと言える。空母改装の着手がミッドウェー海戦後であったため
登場時期が遅くなり、昭和19年6月に僚艦の千代田とともにマリアナ沖海戦に参戦、同年10月25日、レイテ沖海戦で千代田と共に米空母艦載機の猛攻を受け、エンガノ岬沖に戦没した。

水上機母艦千歳の最後は、レイテ湾に日本の誇る戦艦部隊を突入させるため、ハルゼーの率いる空母部隊を北方に引き上げさせる、いわゆる小沢提督率いる囮艦隊の中の一隻ですね。

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回天記念館

回天記念館
回天記念館
昨日は山口県大津島にある回天記念館に行きました。大津島は徳山港からフェリーで40分の離島です。

回天…太平洋戦争末期「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて誕生した特攻兵器。九三式酸素魚雷に人間が乗り込んで体当たり攻撃する。最高速力は30ノットに達する。

写真2枚目は回天訓練基地。今では老朽化して金網で入れないようにしてます。しかし地元の釣り人が、ここでたくさん釣りをしてたのが残念に思いました。ここでは特攻のため1375人の方が訓練を受け実際に145名の戦没者が出ています。そんな場所で釣りとか…ほかに場所いくらでもあるし、管理者の周南市は注意すべきではないかな…。

展示コーナーには、隊員の方々の遺書や映画「出口のない海」で使われたセットが展示してありました。

ある隊員の方の遺書
「お母さん、私はあと3時間後には出撃です。私は敵なんか怖くありません。私が怖いのは、私が戦死したとなれば、お母さんが泣かれることです。でも、お母さん、どうか泣かないで下さい。今、私が行かないと、年を取ったお父さんも銃剣を持たなくてはなりません。弟や妹も空襲で殺されるかもしれません。それでもきっと、お母さんは悲しまれるんでしょうね。お母さんは優しいから。」

記念館の出口には
「今を生きる私たちは、人間魚雷回天の史実をここに記し、祖国と愛する者たちのために自らの命をかけた彼らの後世への想いを、永く語り継いでゆかなければならない」
とあります。

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竣工日カレンダー

竣工日カレンダー
呉海軍工厰で建造された133隻の艦艇竣工日カレンダーによれば、今日は航空母艦・雲鷹が竣工した日です。
雲鷹(うんよう)は、日本海軍の航空母艦。大鷹型の1隻。 雲鷹の前身は日本郵船の客船八幡丸である。優秀船舶建造助成施設・大型優秀船舶建造助成施設などの制度で政府から大型優秀船舶の建造の際資金援助を受けられるようになり、日本郵船が建造した客船の一隻が八幡丸であった。八幡丸は昭和15年7月に竣工、本来は欧州航路に就く予定であったが、すでにヨーロッパは第二次大戦が勃発しており、八幡丸はやむなくサンフランシスコが目的地の太平洋航路に就くことになった。しかし時局は八幡丸を平和な客船業務に就いていることを許さず、わずか1年で海軍に徴用され、空母への改装を行うことになったのである。
すでに姉妹船の春日丸は建造途中に空母へ改装、特設空母春日丸として竣工しており、八幡丸もほぼ同様に改装されることになる。機関は客船時のものをそのまま流用し、上部の乗客用の甲板を撤去、飛行甲板を設けるといった改装は機関の換装を行った瑞鳳などに比べると時間的に短い期間で改装が可能であった。しかし機関は客船当時のままだったため最大速力は21ノットと低速であり、艦隊用空母としての運用は難しかった。このため雲鷹は竣工から戦没までのほとんどの期間を飛行機輸送に用いられている。また低速であったため、日本空母の特徴の一つであった飛行甲板の遮風板は設置されていない。武装は12センチ単装高角砲6門を装備する予定であったが、竣工時には4門のみの装備に留め、後日装備となった。これは昭和18年中に装備されたと言われている。機銃は25ミリ連装機銃4基が竣工時に装備されたと言われている。
昭和17年5月31日、雲鷹は特設空母として竣工したが、完熟訓練早々の7月下旬にははやくも飛行機輸送任務に就いている。昭和17年中はパリクパパン、スラバヤなどの蘭印方面の輸送任務が多かったが、昭和18年にはいるとソロモン方面での消耗が激しく、支援基地であるトラックまでの飛行機輸送に鷹型3隻が縫うように横須賀−トラック間を往復するようになる。海軍機だけではなく陸軍機も鷹型空母によって多くがトラックに運ばれた。洋上飛行が苦手な陸軍機は海軍機よりも鷹型空母のお世話になることが多かったようである。
そんな多忙な日々を送っていた雲鷹であるが、戦局は新たな局面を迎えていた。太平洋戦争前半こそ信頼性の低い魚雷に悩まされていた米潜水艦であるが、魚雷の性能向上、ガドー型潜水艦の大量建造、配備で戦力が格段に向上し、日本のシーレーンを脅かすようになったのである。これにたいして日本海軍の対応は遅れていた。もともと艦隊決戦思考に固まっていた日本海軍では船団護衛に対する認識が低く、被害が大きくなってあわてて対応を行わなければならなかった。遅まきながら海軍内に海上護衛総隊が設立され、シーレーン防衛に本腰を入れることになった。そして護衛任務に鷹型空母を使用することになったのである。
雲鷹は昭和18年12月15日付で海上護衛総司令部付属に編入されたが、この時点では護衛任務には付かず、まだ輸送任務に就いていた。そして翌昭和19年1月19日、トラックへの輸送任務の帰路サイパン沖で米潜水艦ハドックの雷撃を受けてしまう。幸いにもサイパン近海で、航行も可能だったためサイパンで応急修理の後、2月8日に横須賀に辿り着くことができた。この間に水上機母艦から空母に改装された千歳が日本海軍初の空母による船団護衛を行っており、空母による初の船団護衛を行うことはできなかった。
横須賀に辿り着いたものの、当時の横須賀は損傷艦の修理、改装でドックが飽和状態であり、雲鷹は二ヶ月間も修理ができない状態であった。4月になってようやくドックに入渠、修理完了は6月末であった。8月末まで待機状態であった雲鷹に初の、そして最後となる護衛任務に付くことになったのである。
昭和19年8月25日ヒ73船団の護衛任務に出撃する。この際雲鷹は第931航空隊を搭載している。これは雲鷹固有の航空隊ではなく、船団護衛の際護送空母に搭載される航空隊であった。この護衛任務中、船団を攻撃しようとした米潜水艦タニーを撃破するという殊勲をあげている。
ヒ73船団をシンガポールに送り届けた後、雲鷹は引き続きヒ74船団の護衛を行うことになる。しかし昭和19年9月17日、海南島東方で米潜水艦バーブの雷撃を受け、魚雷2本を被り、沈没してしまう。船団を潜水艦から守る護送空母が潜水艦に沈められた形であるが、この後日本の護送空母は次々と同様の運命を辿ることになる。

長々と読んでいただき、ありがとうございます。

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731部隊の陰とゆう番組を観て

日曜日に放送されてたドキュメンタリー宣言を観て…731部隊とは日中戦争から太平洋戦争中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物・化学兵器)研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織です。
731部隊は表向き日中戦争時に各種流行性伝染病予防と兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国のハルピンに配備されました。
捕らえた多くの中国人、モンゴル人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、細菌兵器の人体実験・生体実験に供したと言われていますが、敗戦が確実となった1945年8月13日、証拠いん滅のため731部隊本部は爆破され、残されていた捕虜は全員が毒殺などによって虐殺されてしまい、また戦後米軍は、731部隊が人体実験の結果得たデータと引き替えに、731部隊の戦争犯罪を問わなかったため実態は不明です。
中国などで公開されている731部隊とされる写真の多くは医学的に不可解な行為をしているものがみられます。
これらの中には無関係な写真を無理に関連づけたいわば偽物も数多くあり、否定論の根拠とされることも多いです。
実際、これらの写真を掲載していた『悪魔の飽食』の出版元である光文社が指摘を認めています。
731部隊については、人体実験を行っていたのは確かですし、一方でどこまで非人道的な行為が行われていたかについては、中国側の捏造がかなり入っていることも確かです。
中国政府は731部隊のことを、まるでナチスと同様に糾弾しますが、つい最近まで中国で行われていた、ウイグル人やチベット人を使った人体実験、そして現在も続いている、死刑囚からの臓器提供は、731部隊のしでかしたこととどう違うのでしょうか…。
だからといって731部隊の行為が許されるという訳ではありませんが…。

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浦頭引揚記念平和公園

浦頭引揚記念平和公園
佐世保市にある浦頭引揚記念平和公園に行って来ました。満州・朝鮮半島などから139万人の人々が引き揚げの第一歩をこの地に印したそうです。敷地内には資料館もあり、たまたまいた館長が「若いのに関心だね」とご自身の体験を語って下さいました。館長の姉・親戚の方も北朝鮮からここに引き揚げて来られたらしいです。戦争が終わった後でも悲惨な話はたくさんあるんですね。

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出口のない海

日曜に録画してたのを観ました。人間魚雷と言われた回天を題材にした映画です。そう言えば江田島の海軍兵学校に似たような兵器が外に展示してあるけど、あれは特殊潜行艇ですってガイドの学生さんが力説していたな。
回天は母鑑の潜水艦ごと沈められるケースが多く成果を挙げられてません。人間爆弾・桜花と一式陸攻のような関係ですね。一度は山口県にある回天訓練場に行ってみたいです。

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原爆記念日に思うこと

私は広島出身で8月6日には必ず登校日があり平和学習をしていました。今は長崎県との境にある伊万里市に住んでますが、長崎にも9日に投下されていて、これもなにかの繋がりかと思っています。先の大臣久間氏の原爆擁護発言は長崎県選出の国会議員とは思えませんね。米国では、戦争早期終結であるとか、日本本土上陸作戦の犠牲者を少なくしたとか言われてますが、原子爆弾投下は軍人ではなく民間人の大量虐殺であることから国際条約違反だと思います。日本の政治家は誰も米国にその事を言えませんが、安倍さんは闘う政治家と思っていましたから残念です。
ちなみに原爆と対比して真珠湾攻撃がよく比較されますが、真珠湾攻撃は軍事施設を攻撃したのであり、原爆投下とは比較になりません。
長くなりましたが、終戦記念日の近いこの時期に思うことです。

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